海外難民救援

海外難民救援事業――18団体に1210万円

毎日新聞社会事業団が、毎日新聞紙面との連動で1979(昭和54)年から「飢餓・貧困・難民救済キャンペーン」として始めた海外難民救援事業は、2024年度で46年となりました。西部社会事業団は、東京・大阪両事業団とともに、国際機関の国連世界食糧計画WFP協会や日本ユニセフ協会、「ペシャワール会」「ロシナンテス」をはじめとするNGOなど18団体に総額1210万円を届けました。キャンペーン当初からの救援金の総額は17億3198万8344円になりました。

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海外救援金の配分先は以下の通りです。

【西部管内】

  • ▽ペシャワール会
  • ▽ロシナンテス
  • ▽国連世界食糧計画WFP協会

【東京・大阪管内】

  • ▽国連UNHCR協会
  • ▽国連世界食糧計画WFP協会
  • ▽日本ユニセフ協会
  • ▽国境なき医師団日本
  • ▽日本国際ボランティアセンター(JVC)
  • ▽難民を助ける会(AAR Japan)
  • ▽シェア=国際保健協力市民の会
  • ▽AMDA
  • ▽シャンティ国際ボランティア会
  • ▽ワールド・ビジョン・ジャパン
  • ▽難民支援協会
  • ▽緑のサヘル
  • ▽バーンロムサイジャパン
  • ▽ゴーシェア
  • ▽Piece of Syria
  • ▽テラ・ルネッサンス

ウガンダ中西部のキリヤンドンゴ難民居住区で暮らすスーダン難民のネイマットさんと幼い3人の子どもたち。避難先のテントを何者かに切り裂かれ、骨組みだけが残る跡地で先行きの不安を訴えた=ウガンダで2024年10月26日、滝川大貴撮影

戦争、迫害、災害、貧困などを理由に故郷を追われる人々は世界中で絶えない。毎日新聞社と毎日新聞社会事業団による「海外難民救援キャンペーン」は、アフリカ最大の難民受け入れ国でありながら、ウクライナや中東の紛争のはざまで光の当たらないウガンダから、難民のいまを報告します。

■流民に光を・ウガンダから 172万人、裂かれた夢

赤茶けた大地が見渡す限り広がり、居住用の小さなテントが点在する。アフリカ東部の内陸国・ウガンダには、紛争などで周辺の国々を追われた人たちが大量に流入している。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、10月末時点で172万人。アフリカ最大、世界有数の難民受け入れ国として知られる。

10月下旬、ウガンダ中西部のキリヤンドンゴ難民居住区で、スーダンから逃れてきたネイマットさん(31)が沈痛な表情を浮かべた。「あの出来事を思い出すだけでひどく胸が痛む」

ウガンダの北にあるスーダンでは2023年4月、政府軍と、政府系の準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」による内戦が勃発。一般国民を巻き込み、UNHCRによると、人口約4600万人中、約1100万人が家を追われた。紛争地のデータ収集を行う米NPO「ACLED」は2万7000人以上が犠牲になったとしている。しかし、ウクライナや中東での戦争に埋もれ、「忘れられた紛争」と呼ばれる。

ネイマットさんは内戦の混乱下で夫(41)を殺害された。幼い子どもたちを連れウガンダに逃れたが、一息ついたのもつかの間、住まいのテントが何者かに切り裂かれた。「スーダンで起きている真実を知ってほしい」。彼女は凄惨(せいさん)な体験を語り始めた。

■絶望の淵で「食料品店営みたい」

平穏な日常は突然の襲撃で断ち切られた。アフリカ北東部スーダンでは2023年4月に始まった軍事衝突が国民に悲劇をもたらしている。

「親戚と連絡さえ取れず、誰も頼ることができない」。祖国スーダンを逃れ、ウガンダに身を寄せるネイマットさん(31)は嘆く。

10年ごろ、幼なじみでいとこのアダムさんと結婚。優しく、信心深い性格を愛し、けんかをしたこともなかった。2男2女に恵まれ、夫が営む食料品の小売店は経営が上向き、首都ハルツーム近郊で充実した日々を送っていた。

スーダンでは23年4月15日、政府系の準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」が反乱を起こした。要員や装備を強化して政府軍に準じる役割を任されていたが、近年、政府軍への編入を巡って権力争いが激化していた。

戦闘開始から間もなく、夕食後に突然外から男性の怒声と大勢の足音が聞こえてきた。銃を携えた覆面姿の男たち約20人が敷地の塀を乗り越え押し入ってきた。

アダムさんは両脚を銃で撃ち抜かれ、ネイマットさんは銃で腹部などを殴られた。「なぜそんなことをするんだ」。アダムさんはそう叫んだ瞬間、家族の面前でナイフで首を切られ、大量に出血して絶命した。「彼らには慈悲がなく、神さえ恐れない。人間ではない」と怒りを込める。

「家にある全財産を渡せ」。脅されたネイマットさんは家にある金銭や販売用の商品などをかき集めて渡した。「これで解放される」。しかし、蛮行は終わらず、鎖で手脚を縛られて全裸で寝室に監禁された。飲食物は与えられず、10人を超える男たちに連日暴行を受けた。数日後、意識を失い、気付いた時には病院のベッドの上だった。「ショックで全身の感覚が失われ、声すら出なかった」と嘆く。

ネイマットさんが後に長男ファリスさん(12)から聞いた話によると、自宅は約20日間占拠された後、男たちが気絶したネイマットさんと、監禁されていた子どもたち、そしてアダムさんの遺体を車で遠く離れた路上に運び、放置したという。ネイマットさんは残虐な手口から男たちがRSF以外にないと考えている。

次男フォウジさん(10)は父親が面前で殺されたショックで家の裏口から飛び出し、今も行方が分からない。ネイマットさんは「あの子のことを考えない日はない。でも今の私にはどうすることもできない」と涙を浮かべる。

安全のため2~12歳の子ども3人を連れて隣国・南スーダンに逃れた。避難生活を送る中で、「ウガンダなら難民でも安心して暮らせる」といううわさが耳に入った。貨物バスの隙間(すきま)に乗せてもらうなどして、24年7月、ウガンダ中西部のキリヤンドンゴ難民居住区にたどり着いた。

居住区は難民がウガンダの人たち(ホストコミュニティー)と同じ地域で共生できるよう政府が国内各地に設置しており、居住・耕作用の土地が提供される。キリヤンドンゴは地元民約73万人と難民約13万人が暮らす。

「人生をやり直せる」。しかし、翌8月、就寝中、何者かにテントを切り裂かれた。危険を感じて今は隣人のテントの一角で寝泊まりをさせてもらっている。

スーダンの自宅での襲撃の際、銃で殴打された後遺症か、腹部は膨れ上がっている。少し重い物を持つと激痛が走る。居住区の医療施設には検査機器がなく、設備の整った私設病院に行こうにも交通費や治療費が払えない。

そんな絶望の淵にあっても一つの夢がある。少しずつお金をためて食料品の売店を開くことだ。生計を立てる以外に大切な理由があるという。「食料品店は夫がスーダンで営んでいた。夫の思いを継ぐことで、残された子どもたちと、夫を思い出しながら強く生きていける気がするから」【キリヤンドンゴ郡悠介、写真・滝川大貴】

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